2025年08月21日(木) 12:00
今年、2025年は「昭和100年」にあたる。
そこで、考えてみたい。「まるで昭和だね」という表現は、どんなときに、どんな物事に対して使われるのか。
まず思い浮かぶのは、運動部のしごきや、男尊女卑の言動、トイレ共同アパートの4畳半の部屋など、今は珍しくなった古くさいものを見たり聞いたりしたときだ。
昭和最後の年は1989年。1月7日までが昭和64年で、1月8日から平成元年になった。
その年の「昭和」は7日間しかなかったので、実質的に「昭和最後の年」はその前年の1988年。今から37年前である。
競馬界では、美浦に先がけてつくられた栗東の坂路で鍛えられた馬たちによる「関西馬旋風」が強くなりはじめた。
タマモクロスVSオグリキャップの「芦毛対決」で盛り上がったのもこの年だ。
あのころまでが「昭和の競馬」だった、ということか。
まず、スターティングゲートが青く、冬の芝コースが茶色かった。それに、ひとつのレースに出る頭数が多く、ダービーのフルゲートは24頭だった。騎手たちの着る勝負服はエアロフォームではなく、パタパタと風を受けて震えていた。
関東では岡部幸雄さん、柴田政人さん、増沢末夫さん、郷原洋行さんらが騎手界を牽引し、みな、話しかけるのがためらわれるほど近寄りがたく、怖かった。
関西では河内洋さん、田原成貴さんらの存在感が際立っており、デビュー2年目に菊花賞を勝った武豊騎手がものすごい勢いで上に迫っていた。
まだ降着制度はなく、ひどい斜行などで走行妨害をした騎手と馬は失格になった。
私は、競馬新聞の馬柱の上がり3ハロンのところに35秒台の数字があれば色をつけて目立つようにしていた。32秒台も出る今の感覚からすると意味がわからないかもしれないが、35秒台でもものすごく速かったのだ。
私を含め、観客はくわえタバコで場内をウロウロしていた。ワンカップ片手に座り込んでいるジジイがそこここにいた――。
確かに「平成の競馬」や「令和の競馬」とずいぶん違うところもあるが、私が知っているのは、「昭和の競馬」のなかでも最後の数年だけである。
昭和は長かった。何しろ、アメリカ、イギリスなどの連合国と戦争までしたのだから。
私たち昭和生まれの人間の多くにとって、価値観の分岐点となっていたのは戦争だった。「戦前」か「戦後」かで、憲法も、他国との関係も、教育も、食生活も、何もかもが変わってしまった。「昭和」というひとつの元号のなかで様々な変化があったわけで、競馬の主催者も変わった。倶楽部時代の終わりに日本競馬会が発足し、それが戦後国営競馬となり、昭和29(1954)年に現在の日本中央競馬会になった。
斉藤すみ(「澄子」と表記することも)という女性が、昭和11年に京都競馬場で騎手試験に合格し、日本初の女性騎手となった。調教師に弟子入りする条件として、男装して女であることを隠すという、今では考えられない無理難題を押しつけられながらも厳しい修業に耐え、夢を実現させた。しかし、農林省と帝国競馬協会から「女子は風紀上問題がある」とされ、出場を禁じられた。そして翌年発足した日本競馬会の規程に「騎手にありては満19歳以上の男子」と明記され、夢への道が完全に閉ざされた。
競馬界は角界同様女人禁制で、「女が寝藁を跨ぐとけがれる」と言う競馬関係者もいた時代のことだ。
が、日本初の女性オーナーブリーダーの沖崎エイ(1899-1989)について調べていてわかったのだが、斉藤すみが騎手になることを許されなかったころも、女性の馬主は存在していた。
昭和11年春季の競馬成績書の服色登録(馬主の勝負服の図柄の登録)に、牛沢満喜江、岡橋力子、大塚静子、田口数美、笹川加津恵といった名が見える(旧字は新字に改めた)。百人にひとりいるかどうかだが、確かにいた。
彼女たちも当然、所有馬を見るため厩舎を訪れることもあったはずだ。そのとき女性馬主が寝藁を跨いだとしたら、厩舎関係者は「けがれるから跨ぐな」と怒鳴りつけただろうか。
なかにはそういう関係者もいたのかもしれないが、ほとんどの関係者が女性馬主に対して下にも置かぬもてなしをしただろう。
斉藤すみと女性馬主とで何が違うかと言うと、立場とか目指すところとかいろいろあっただろうが、一番大きな違いは、金を持っていたかどうか、だ。
昭和、平成、令和を通じて変わらないこともあり、金の力もそのひとつである。
嫌な話になってしまった。
書きながら思ったのだが、すみは、調教師ではなく、大馬主を後援者につけていれば、違う結果になっていた可能性もあったのではないか。その大馬主が安田伊左衛門らに働きかけるなどしていれば、規程の「男子」を「者」とするくらい、簡単にできたはずだ。
昭和の時代にはIT長者もいなかったし、年収が億を超えるスポーツ選手も数えるほどだった。戦争もあったが、それでも、悪いだけの時代だったと少なくとも私は思っていない。
私にとっての昭和は、敗戦から復興し、自分たちを跪かせたアメリカに追いつき、追い越すことを目標とした時代だ。それをなし遂げた(と勘違いした)ころに気が抜けてしまい、元号も変わった。
CMのコピーだった「24時間戦えますか」が元号の変わった1989年の流行語になったのは、こう振り返ると象徴的な出来事だった。
昭和のよかったころについて何か思い出したら、また書きたいと思う。
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。「Number」「優駿」「うまレター」ほかに寄稿。著書に『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリー『ブリーダーズ・ロマン』。「優駿」に実録小説「一代の女傑 日本初の女性オーナーブリーダー・沖崎エイ物語」を連載中。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナー写真は桂伸也カメラマン。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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