秋華賞に関わる一族

2025年10月16日(木) 12:00

 先日、家人が留守のとき取材先から帰宅すると、マンションの部屋のドアにキーホルダーのついた鍵が刺さっていた。私のキーホルダーである。慌ててズボンの左前のポケット(いつもここに鍵を入れている)に手を入れると、車のキーしか入っていない。

 恐る恐るドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。きっと忘れ物に気づいて取りに戻ったあと、鍵をかけるのを忘れたのだろう。

 我が家ではあるが、足を踏み入れるのが怖かった。

 玄関と廊下の灯をつけて耳を澄ました。私の五感で最も優れているのは嗅覚なので、嗅ぎ慣れない臭気がないか、じっくり時間をかけて確かめた。

 どうやら大丈夫だ。

 手洗いとうがいをし、家着に着替えながら、ふと思った。ドアに鍵を刺したままだったのに、どうして私はエントランスのオートロックを通り抜けることができたのか。

 少し経つと、先年理事会で一緒になった同年配のAさんの顔が浮かんできた。そうだ、さっきAさんがオートロックを開けたとき、一緒に入ったのだった。

 私はそれすら忘れていたのだ。

 パソコンを立ち上げ、メールをチェックすると、編集者から連載小説に赤入れしたゲラが届いていた。赤が入っていたところ、つまり、修正したほうがいいという指摘があったところは2箇所で、私もメールを見る前から変えたほうがいいと思っていたところだった。メールの本文を読み直し、もう一度ゲラを見ると、編集者が赤入れした箇所がさっきと違っていた。「あれ?」と思い、歯を磨いてからまた見ると、元に戻っている。が、画像編集ソフトで修正ゲラに書き込もうとしたとき、また違う箇所に赤が入っていた。

 ――ダメだこりゃ。

 そのあとすぐ寝て、翌朝ゲラを見てからは、赤入れの箇所が移動することなく、普通に作業ができた。

 今でもその夜の記憶は、私がおかしかったのではなく、ゲラがおかしかったものとして残っている。

 鍵を刺したまま出かけてしまったのはそれまでも何度かあったのだが、ゲラの修正箇所が見るたびに異なっていたのは初めてだったので、さすがに気持ち悪かった。

 私は一滴も酒を飲まない(飲めない)ので、酔っていたわけではない。疲れていたせいで、記憶を司る海馬か何かがちゃんと働かなかったのだろうか。

 さて、今週末行われる秋華賞は、今年が30回目の節目となる。そのうち6回で牝馬三冠馬が誕生(史上初の牝馬三冠馬メジロラモーヌの三冠目はエリザベス女王杯)した。

 三冠のかかる一戦だったということでは、2009年に2位入線後3着降着となったブエナビスタと、2022年に3着だったスターズオンアースもいるので、これまで8回が牝馬三冠馬を決める戦いとなったわけだ。

 今年は桜花賞をエンブロイダリー、オークスをカムニャックと違う馬が勝ったので三冠のかかる一戦ではないが、エンブロイダリーから見ると前出のブエナビスタは大伯母にあたる。2頭は同じ牝系の一族ということになるが、この一族の「牝祖」は、持ち込み馬として1993年に生まれたビワハイジと解釈していいのだろうか。

 ダイイチルビーなどが出た「華麗なる一族」や、スカーレットブーケなどが出た「スカーレット一族」のように牝系の名称が決まっているわけではないが、何らかのネーミングがあってもいいと思うくらい「ビワハイジ系」の馬たちは走っている。

 1990年に輸入されたダンシングキイを4代母に持つカムニャックの属する「ダンシングキイ系」も同様だ。ダンシングキイの6番仔で、カムニャックの3代母のダンスパートナーをはじめ、活躍馬が多く出ている。

「ビワハイジ系」はノーザンファーム、「ダンシングキイ系」は社台ファームで主に育まれていることも、両者がさらに枝葉をひろげていく要因になっている。

 エンブロイダリーは、ビワハイジにアグネスタキオンを付けて生まれた2代母にクロフネを付けて誕生した母にアドマイヤマーズを配合して生まれた。

 カムニャックはダンシングキイにサンデーサイレンスを付けて生まれた3代母ダンスパートナーにエルコンドルパサーを付けて誕生した2代母にサクラバクシンオーを配合して生まれた母にブラックタイドを付けて生を受けた。

 と書くと、カムニャックのほうが日本の競馬小史を見ているようでダイナミックに感じられるが、はたして、秋華賞ではどんな戦いが繰りひろげられるのか。

「一族」の話をもう少しつづけると、「華麗なる一族」がそう名付けられた1970年代は、ちょうど山崎豊子の小説『華麗なる一族』がドラマ化されたことに加え、今ほどクオリティの高い牝系が日本の生産界に多くなかったので、この一族がクローズアップされたということも命名につながったのだろう。

 また、ほかにはっきりとした名称を持つ「スカーレット一族」や「薔薇一族」などは、牝祖と一族の馬たちの馬名に共通項がある。前者は牝祖がスカーレットインクで、娘はスカーレットリボン、スカーレットローズ、スカーレットブーケなどと命名された。後者は牝祖がローザネイで、娘にローズバド、その仔にローズキングダムなどがいる。

 その伝で言うと、ダンシングキイ系は「ダンス一族」と呼ばれてもいいような気がしてきた。ネットで検索してみたら、そう呼んでいる人もいるようだが、あまり浸透しているとは言えない。一昨年の秋華賞で9着だったヒップホップソウルはダンスファンタジアの娘で、2代母がダンスインザムード、3代母がダンシングキイと、ボトムラインにダンスに関する馬名が並んでいる。

 カムニャックがさらにメディアに頻出するようになれば、「ダンス一族」という名称も市民権を得るようになるかもしれない。

 ということで、何のひねりもない予想になってしまったが、カムニャックから買うことにしよう。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。「Number」「優駿」「うまレター」ほかに寄稿。著書に『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリー『ブリーダーズ・ロマン』。「優駿」に実録小説「一代の女傑 日本初の女性オーナーブリーダー・沖崎エイ物語」を連載中。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナー写真は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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